2月23日 集会でのおはなし

 

 

朝のパン裂き集会(十字架イエスを思い出す集会)で開かれた箇所

 

「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」
‭‭テモテへの手紙一‬ ‭1:15‬ ‭新共同訳‬‬

 

「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭6:35‬ ‭新共同訳‬‬

 

モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。 「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。 そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。 主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。 あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。 また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。 また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、 こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」 民はひれ伏して礼拝した。 それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。」
‭‭出エジプト記‬ ‭12:21-28‬ ‭新共同訳‬‬

 

◎福音集会のお話

 

好本豊さん

「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭1:29‬ ‭新共同訳‬‬

職場で、カビの出た壁を上から塗って修繕しても、時間が経つと浮き出てきました。覆う、隠すという一時しのぎではなく、取り除くという言葉が使われていることが大切なのだと思います。

私の家には水槽があります。小さなエビとピンクのドジョウがいて、いつも惚れ惚れと眺めています。水が安定していて、何年も水換えらしいことはしていませんが、とても綺麗な環境が保たれています。

ある時、エアポンプが壊れたので、新しいものに替えました。替えたのに、しばらくすると水がにごって臭くなってきました。水槽には魚が出した老廃物を分解するバクテリアがいて、そのおかげで何もしなくても水が綺麗なのだそうです。ポンプを新しくしたことで、それができなくなっていたのです。取り除く者が大切だということですね。

この箇所で、イエスは「罪人」を取り除くのではなく「罪」を取り除く子羊と書いてあります。イエスは罪人のところに来た。罪人を救うために来た。と書いてあります。滅ぼすためでなく、救うため。です。

では、「罪」はどのようにして取り除かれるでしょうか。バプテスマのヨハネはこの箇所で、「神の子羊」が取り除くのだと言いました。出エジプト記12章を見ましょう。ここを見ると、イスラエルがエジプトから救い出される時羊がその家にその人の身代わりになったことが書いてあります。聖書は、罪は神の前に命を損なう重大な問題点であり、命をもって償われなければならないことが明かされています。羊が殺されたように、イエスも私たちの身代わりとして殺されました。新約聖書では、あの動物の犠牲はイエスが行うことの雛形であって、形式上の1時的なものであったことが明かされています。1時的な動物の犠牲とは違い、イエス本人の身代わりは永遠に有効だと書かれています。

あの水槽の水は何度きれいな水を入れ替えても、やがて腐ってしまいます。水を取り替えることによってではなく、汚れを取り除くバクテリアが入ることによって、水は永続的に保たれるんです。バクテリアとイエスを例えるのはあまり良くないかもしれませんが、イエスが私たちにしたいことも、そのようです。十字架の死は、私たちの罪を取り除くことによって、私たちが神の前に何のやましさもなく出ることができ、神と交わることができることを宣言した、救いの技でした。是非このイエスキリストを信じて歩みましょう。

 

廣本研一さん

「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」
‭‭ペトロの手紙一‬ ‭1:18-21‬ ‭新共同訳‬

ペテロはイエスの12弟子の1人です。先程、過越の子羊であるイエスについて話されましたが、この箇所もそのことを念頭に書いていると思われます。私たちは生まれながらに、例外なく、上から離れた生き方をし、神に心を止めることがありません。今私たちの大きな関心事は新型コロナウィルスなどですね。今から20年以上前、仕事の取材であるお医者さんにお会いしたことがあります。(広本さんはテレビ局勤務)その方は20世紀で感染症との戦いは終わったと言っていました。これからは生活習慣病との戦いが待っているだけだ、との事でした。しかし現場そうではありませんでした。私たち人は未だ感染症に右往左往する存在です。私たちは何かを克服しているように見えてもその実、力のないものです。自然災害も私たちにそのことを教えていないでしょうか。私たちが気づいていなくても、私たちは神の恵みに支えられてのに命保たれている事ををを思い出さなければならないと思います。神の前に謙虚であると言う事ですね。しかし私たちは弱いものであっても、神の前に受け入れられることができます。今読んだ箇所に書いてあるその通りです。2章の22節を見ると、この方には汚れが全くなかったと書かれています。聖書の中からいけにえの規定を見ると、羊は頭と内臓と足が祭壇に捧げられたと書いてあります。ある方がこのように教えてくれました。頭は、思う部分です。内臓はその内側、足は歩むところですからその行いを表している。イエス・キリストは、その思いと心の内面と行いにおいてきよい方でした。過越の子羊は傷のない羊でなければなりませんでした。このことが示しているように、イエス・キリストは全く汚れがない方だからこそ、十字架で次の犠牲になることができました。

聖書の中に私たちは1つに例えているところがあります私たちは迷った等です。しかしイエスは傷のない羊です。イエスが未に例えられたのは、神が私たちと同じ姿になったことを表しているのではないでしょうか。私たちは不完全でありますが、イエスは何一つ傷のない方です。21節をみましょう。傷のない方が完全な救いを用意しているからこそ、私たちの魂の救いは、神の力にかかっているといえます。